令和 島おこし七人衆

令和 島おこし七人衆

令和島おこし七人衆

REIWA
SHIMAOKOSININSHU
令和
島おこし七人衆

広島県呉市豊町大長で、本格的にレモン栽培に取り組むことになるのは、1901年(明治34年)です。
大崎下島の村長(秋光八郎)はこの年、神戸でレモンと出会います。その後村長の自宅で、石田只一、秋光伊織、末岡伍作、大道好左衛門、大島慶造、宇津森百太郎、多武保庄太郎の七名(島おこし七人衆)と話し合いがもたれます。
「まだ、日本にはレモンの産地はない、大崎下島をレモンの産地にする」と。
時は流れ「令和」となり、超高齢社会と後継者不足が島を襲います。耕作放棄地も増えレモンの島は荒れ始めてた時、末岡伍作の三代目「末岡和之」を筆頭として志高き人々が「令和島おこし七人衆」として立ち上がりました。

島おこし七人衆の歴史

uzurea icon

 広島県呉市豊町大長で、本格的にレモン栽培に取り組むことになるのは、1901年(明治34年)です。
大崎下島の村長(秋光八郎)はこの年、神戸でレモンと出会います。
その後村長の自宅で、石田只一、秋光伊織、末岡伍作、大道好左衛門、大島慶造、宇津森百太郎、多武保庄太郎の七名(島おこし七人衆)と話し合いがもたれます。
「まだ、日本にはレモンの産地はない、大崎下島をレモンの産地にする」と。
しかし、知名度ないレモンは国内販路が難しいという課題があがりました。そこで、「温州みかんの栽培にも着手しては?」との意見が出されました。
しかし、温州みかんの販売には、和歌山県や静岡県の巨大産地への対抗手段を探さねばなりませんでした。
小さな島で、どのように競争力のある商品を育て上げるのか?多くの検討がなされました。
そして、島おこし 七人衆は
「将来を見込んだ「レモン」と、作ったら直ぐに売れる知名度のある「温州ミカン」の栽培に着手し、島おこしをおこなう」と決めました。「島おこし七人衆」は全国の産地に赴き温州ミカン約50種の研究が始まりました。
そして出会ったのが、大分県津久見の隣にある青江の里の川野仲次の畑で出来た突然変異の温州ミカン(青江ミカン・青江早生:早生で、とても美味しい)の苗木でした。
末岡伍作は、50本の接ぎ木用の穂を青江の里から、広島県呉市豊町大長に持ち帰り、5年で200本の苗木を育て上げ、島に多くの苗木を育て上げました。
レモンの苗は神戸の貿易商を経由してアメリカ本土から取り寄せ、こちらも多くの苗木を島に植えました。
島おこし 七人衆は島の農家一軒一軒を周り、温州ミカンとレモンの栽培に着手するように説得に回りました。
ミカンやレモンは苗木を植えても収穫まで5年以上かかります。
それまでは収益がありません、これこそが島の農家の反対理由です。
反対派は、ミカンやレモンの木を傷つけたりしましたので、夜は交代で苗畑の見回り、昼は苗木の世話と農家の説得と、島おこし七人衆は、24時間働きました。
そして7年目、初収穫の時が訪れ、七人衆の山肌の畑は黄金色に輝きます。
広島の市場では、黄金色に輝いたミカンは島おこし七人衆のものだけです。
当然、初物として高値で取引されました、同様に貴重な国産レモンも高値での取引となったのです。
これを聞いて、島民たちも競って、レモンとミカンを栽培に着手するようにうなり、島おこし七人衆は島の農家への育成指導を展開したのです。

しかし、島内で問題が発生したのです!
「よその土地に、苗を分けるな!レモンやミカンの値が下がる!」と大崎下島の農民が騒ぎ出しました。
末岡伍作をはじめとする「島おこし七人衆」は、大きな構想を掲げていました。
それは、市場を広島県だけで考えず、日本全国で見渡すという視点です。
大崎下島だけでなく、広島県全体を生産地として日本全国に対してブランドを構築するということです。
その後この大崎下島から発祥したミカンは「青江早生」は「広島ミカン」という名前で日本全国の市場に出荷されるようになりました。
(愛媛県菊間町では、大長村から苗木を持ち帰ったことから「大長早生」とも呼ばれていたそうです。)
一方、大崎下島で栽培がはじまったレモンは、1924年(大正13年)には、日本産レモンの80%の市場占有率を誇りました。
そして、また問題が発生しました。
生産者と問屋との買い取り価格の問題です。常に弱者は大崎下島の農民でした。
これを解決すべく、末岡伍作をはじめとする「島おこし七人衆」は、同業組合を結成を計画します。
しかし、島内は組合派と反組合派(既得権を守ろうとする問屋側)の2つに分かれます。
末岡伍作をはじめとする「島おこし七人衆」は、農家の利益を守り、大崎下島の農民の豊かな暮らしの未来のために、農家一軒一軒まわって説得するのです。
努力の甲斐があって、1929年(大正15年)に「島のミカン作りの同業組合」が設立しました。
島おこし七人衆のリーダー的存在であった「末岡伍作」がつくった農園が、末岡新果園です。
そして、そのスプリットは現代にも脈々と受け継がれています。
それが、「令和 島おこし七人衆」です。

*参考文献=黄金の島 椋鳩十著 ポプラ社
*参考文献=『豊町郷土産業読本』(昭和三十六年八月一日発行・大長小学校長・藤原謙一編集・大長小学校編)
 『カンキツ栽培法』(昭和四十一年十一月十五日発行・岩崎籐助著・朝倉書店)
※「広島レモン」はJA広島果実連の登録商標です。
 「大長レモン」JA広島ゆたかの登録商標です。
*参考広島県庁HP
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemo

島おこし七人衆「末岡 伍作」

uzurea icon

「耕して天に至る」といわれた大崎大島 豊島は、島中に段々畑が広がり秋になるとみかんがたわわに実ります。
収穫期に島全体がみかん色に染まるこの島は、いつしか「黄金の島」と呼ばれるようになりました。
豊町のみかんづくりは明治34年(1901)「青江早生」の導入に始まり「大長みかん」を全国に誇るブランドへと押し上げたのです。
その原動力となったのは、「どこよりも、おいしいみかんを」という島の人たちの情熱と努力です。

※ 写真は、島おこし七人衆のリーダー役で、行動力がずば抜けていた「末岡 伍作」です。

ポプラ社
椋鳩十の離島ものがたり

黄金の島

ポプラ社 椋鳩十の離島ものがたり 黄金の島

「耕して天に至る」といわれた大崎大島 豊島は、島中に段々畑が広がり秋になるとみかんがたわわに実ります。収穫期に島全体がみかん色に染まるこの島は、いつしか「黄金の島」と呼ばれるようになりました。豊町のみかんづくりは明治34年(1901)「青江早生」の導入に始まり「大長みかん」を全国に誇るブランドへと押し上げたのです。その原動力となったのは、「どこよりも、おいしいみかんを」という島の人たちの情熱と努力です。

「大長よいとこ東を受けて、みかんばかりの山と谷」と島では歌われています。
頂上まで開墾した段々畑が一面に広がり、見上げるばかりの急傾斜地に植栽されたみかんは、「大長みかん」として高い評価を受け、近隣の島々にも出作りをするなど、大きく農地を拡大して繁栄してきました。
児童文学者の椋鳩十氏は、全島がオレンジ色に色付く様子を「黄金の島」と評しています。