私は、舟入で鍼灸整骨院を開業し、今年で13年目になりました。
振り返ると、山あり谷ありで、継続することの大変さを、日々感じています。
代々続いている果実農家の長女との結婚を経て、初めて農業を体験しました。
大自然と触れ合いながらの作業は、毎日時間に追われながらの仕事とは違い、のどかで体と心がリフレッシュされるのを実感します。
しかし、この素晴らしい自然は、時として脅威にもなります。
桃作りからみかん作りへの開拓から始った歴史ある島で、末岡新果園は、台風被害なども経験しながら三代続けている農家です。
農業は、私の仕事とは違い、大自然を相手にする仕事です。
自身ではどうすることも出来ない自然災害で木々は倒れ、ビニールハウスも大打撃を受け当時は、閉園を考えたそうです。
その台風被害から立ち直り、レモン作りで、また新しい未来を繋いでいこうと義父は日々奮闘しています。
私は、そんな義父の未来への希望を絶やさない様に思いを繋げていければと思っています。
私は、某病院で看護スタッフとして勤務しています。主人と娘の三人暮らしで、日々、仕事と育児に追われる日々を過ごしています。
私の実家は、みかん、レモン、清見といった、柑橘を作る農家で、私は幼少期を自然豊かなこの島で過ごしました。思い出されるのは、学校が休みの日は、農業のお手伝いばかり。さらに、小学校で「農業休暇」というのが数日あって、農家の子供はお手伝い、農家の子供ではない友達は「ただの休み」と言っていたのを、ただただ羨ましく思ったものです。
ですが、この農業にはすごい力を今となっては感じていて、それは、とにかく「忍耐力が身についたかな」ということでしょうか。これは、仕事で何か達成した時の喜びとは違い、達成するまでの過程を大切にする力みたいなもので、測れないものです。それを教えてくれた祖父や祖母の背中を見ながら、そして、祖父や祖母の思いを継承しようと奮闘する父を見ながら、家族の大切にしているものを私も同じように大切に出来たら、きっと、私自身や私の大切な家族の成長にも繋がると感じています。4歳になった娘にこれから成長する過程で、何かを感じてもらえると嬉しいです。
大亀農園ではレモンをはじめ、デコポン、みかん等1.5ヘクタールほど栽培してます。
特にミカンについては観光農園を経営してまして、年間約1000人程入園者を受け入れています。
まず味にこだわり、品質など全てにおいてこだわりを持って栽培してます。
45歳 愛知県出身
昭和49年3月26日生まれ
呉市下蒲刈島に2015年4月地域おこし協力隊として家族でパラオより移住。地域おこし協力隊として在任中は、地域イベントのお手伝いや消防団活動、地域の小中学校の総合学習講師など、地域密着の活動を行いました。具体的には地域の特産を集めたマルシェ「とびしマーレ」を計5回開催、他にもとびしま海道初の本格「レンタサイクル」の仕組みを構築して現在(2019年10月)も継続して運営しております。地域おこし協力隊を卒業後(2018年3月)もこの地の可能性に惹かれ家族で下蒲刈島に定住しており、主な活動としてコテージ梶ヶ浜で継続している「レンタサイクル」の運営、2019年で2回目を迎える100㎞を走る大会「とびしまウルトラマラニック」を主催しております。また「未来へのとびしマーレ構想協議会」を立ち上げ、農林水産省の農泊推進対策の「農山漁村振興交付金」を活用して、外国人が来島できる仕組み作り(英語のホームページ制作、体験メニュー作りなど)や紫蘇を使った特産品開発、イベント民泊制度を使った民泊推奨に現在取り組んでおります。家族は妻と長女、長男の4人家族。
昭和26年に、島おこし7人衆「末岡伍作」の孫として生まれました。
三代目になったきっかけは・・・
当時、私は15歳
伍作じいちゃんの今際の時の約束からはじまります。
「わかりました、私が後継します。」
決断し、東京農業大学をめざし猛勉強をはじめました。
東京農業大学第一高等学を受験し、東京農業大学に進みました。
大学を卒業後、会社勤め30年を経て末岡新果園三代目(末岡家6代目)を引き継き、今に至ります。
レモン農家として三代目、いろいろな方々からレモン栽培の伝授され、試行錯誤の時期を経て、末岡流レモン栽培を構築していきました。
それこそが、初代末岡伍作から受け継がれ、島の大地や環境と語り合いながら熟成してきた「末岡大長レモン」ブランドです。
レモンだけでなく、黄金の島に繁栄を導いた「温州みかん」、「清見オレンジ」です。
末岡ブランドとしては、徹底的に味にこだわり、完熟まで木で育てます。
このこだわりは・・・
皆さんの「おいしい」の一言を聞きたいためです。
この一言が、何よりも「うれしい」です。
農園作業は、自然との共存です、辛いこと、大変なこと、たくさんあります。
しかし、この一言「おいしい」が聞こえてくると「さあ!次年も頑張るぞ」という力と喜びが心の奥底から湧いてきます。
農園をやっていて、良かったと思う瞬間です。
皆さんが実際に、農園に来て頂きレモンやみかん等の柑橘の育成や島の暮らしに触れて頂けるよう。
末岡流レモン栽培とのふれあい、家族で過ごす農園ライフ体験、学生さん、社会人、海外からの訪問者が、たのしい一日を過ごして頂ける準備を今進めています。
昭和31年生まれ、呉市豊町大長出身、広島県崇徳高校、駒沢大学卒業後、東京の信用金庫で25年勤務し、49歳で故郷の呉市豊町大長に家族で戻り、家業の柑橘農家を継ぐ。
柑橘類生産内容はレモン、温州ミカン、はれひめ、ポンカン、紅八朔、デコポン、清見、たまみ、ブラッドオレンジ、瓢柑、花良治などで、約3haの里信農園で生産をおこなっています。
園地は、大崎下島、大崎上島、岡村島にあり、大崎上島には船でいきます。
近年では極早生みかんをレモンに転換するなど、レモンの作付面積を増やしております。
また、こだわりのみかん「石積みかん」の生産にも力を入れており、美味しいみかんへのチャレンジをおこなっております。
更に、町の活性化を目指して六次産業化を見据えた「石積みかん」ジュースの販売をしています。
高齢化、過疎化をなんとかするために地域外の力や知恵を積極的に取り込んでいます。
レモンで後継者が増加し、町の活性化につながるよう頑張ります。
トム 宮川 コールトン 東京門前仲町生まれ。
イギリス人の父と日本人の母のもとに生まれる。
幼少期にイギリスに渡り、日本語や芸術を学び大学卒業後再び日本へ。
写真家であり、ライター、通訳、コーディネーターをメインに活動。
2010年 日本写真家協会 第6回「名取洋之助写真賞」受賞など多彩な才能発揮。
2015年 広島県呉市、御手洗へ移住。
現在は海外向けのwebやプリントコンテンツ制作会社を立ち上げ、西日本、瀬戸内海の魅力を発信するプロジェクトに携わるなど多岐に活躍中。
島に移住するきっかけを尋ねた。
初めて、大崎下島を訪ねた時は、11月でちょうど収穫期でした。
道沿いで売っていたミカンを一口食べたら、びっくり。
今までの人生で食べた柑橘の中で、一番美味しいミカンでした。
柑橘についてこれまで深く考えることはなかったので、こんなに美味しい柑橘がある事に気付いて…衝撃的な瞬間でした。
結局島に移住して、休日には、よく新果園や収穫のお手伝いなどをしています。お手伝いのお支払いは、いつもお金ではなく、柑橘でもらっています。
その為、毎年旬の美味しさを味わえます。
今後、色んな人にこの島の素敵な柑橘と環境を知ってもらいたいです。
この地の文化を支えている農家は、減って来ているし、高齢化しています。
島の文化を繋ぐ、若くて、柑橘農家になりたい人をサポートして、ルートを作ってあげたいです。
と話してくれた。
彼もまた、令和島おこし7人衆の頼もしいメンバーだ。
レモンと大長の歴史に魅了されご縁があり、末岡新果園さんに弟子入りしました。
2年間の研修でレモン栽培、販売を学び現在20アールのレモンを中心とした園地を持たせていただき、頑張っています。
この先面積を増やしレモン農家として邁進したいと思っています!
広島県呉市豊町大長で、本格的にレモン栽培に取り組むことになるのは、1901年(明治34年)です。
大崎下島の村長(秋光八郎)はこの年、神戸でレモンと出会います。その後村長の自宅で、石田只一、秋光伊織、末岡伍作、大道好左衛門、大島慶造、宇津森百太郎、多武保庄太郎の七名(島おこし七人衆)と話し合いがもたれます。
「まだ、日本にはレモンの産地はない、大崎下島をレモンの産地にする」と。
時は流れ「令和」となり、超高齢社会と後継者不足が島を襲います。耕作放棄地も増えレモンの島は荒れ始めてた時、末岡伍作の三代目「末岡和之」を筆頭として志高き人々が「令和島おこし七人衆」として立ち上がりました。
広島県呉市豊町大長で、本格的にレモン栽培に取り組むことになるのは、1901年(明治34年)です。
大崎下島の村長(秋光八郎)はこの年、神戸でレモンと出会います。
その後村長の自宅で、石田只一、秋光伊織、末岡伍作、大道好左衛門、大島慶造、宇津森百太郎、多武保庄太郎の七名(島おこし七人衆)と話し合いがもたれます。
「まだ、日本にはレモンの産地はない、大崎下島をレモンの産地にする」と。
しかし、知名度ないレモンは国内販路が難しいという課題があがりました。そこで、「温州みかんの栽培にも着手しては?」との意見が出されました。
しかし、温州みかんの販売には、和歌山県や静岡県の巨大産地への対抗手段を探さねばなりませんでした。
小さな島で、どのように競争力のある商品を育て上げるのか?多くの検討がなされました。
そして、島おこし 七人衆は
「将来を見込んだ「レモン」と、作ったら直ぐに売れる知名度のある「温州ミカン」の栽培に着手し、島おこしをおこなう」と決めました。「島おこし七人衆」は全国の産地に赴き温州ミカン約50種の研究が始まりました。
そして出会ったのが、大分県津久見の隣にある青江の里の川野仲次の畑で出来た突然変異の温州ミカン(青江ミカン・青江早生:早生で、とても美味しい)の苗木でした。
末岡伍作は、50本の接ぎ木用の穂を青江の里から、広島県呉市豊町大長に持ち帰り、5年で200本の苗木を育て上げ、島に多くの苗木を育て上げました。
レモンの苗は神戸の貿易商を経由してアメリカ本土から取り寄せ、こちらも多くの苗木を島に植えました。
島おこし 七人衆は島の農家一軒一軒を周り、温州ミカンとレモンの栽培に着手するように説得に回りました。
ミカンやレモンは苗木を植えても収穫まで5年以上かかります。
それまでは収益がありません、これこそが島の農家の反対理由です。
反対派は、ミカンやレモンの木を傷つけたりしましたので、夜は交代で苗畑の見回り、昼は苗木の世話と農家の説得と、島おこし七人衆は、24時間働きました。
そして7年目、初収穫の時が訪れ、七人衆の山肌の畑は黄金色に輝きます。
広島の市場では、黄金色に輝いたミカンは島おこし七人衆のものだけです。
当然、初物として高値で取引されました、同様に貴重な国産レモンも高値での取引となったのです。
これを聞いて、島民たちも競って、レモンとミカンを栽培に着手するようにうなり、島おこし七人衆は島の農家への育成指導を展開したのです。
しかし、島内で問題が発生したのです!
「よその土地に、苗を分けるな!レモンやミカンの値が下がる!」と大崎下島の農民が騒ぎ出しました。
末岡伍作をはじめとする「島おこし七人衆」は、大きな構想を掲げていました。
それは、市場を広島県だけで考えず、日本全国で見渡すという視点です。
大崎下島だけでなく、広島県全体を生産地として日本全国に対してブランドを構築するということです。
その後この大崎下島から発祥したミカンは「青江早生」は「広島ミカン」という名前で日本全国の市場に出荷されるようになりました。
(愛媛県菊間町では、大長村から苗木を持ち帰ったことから「大長早生」とも呼ばれていたそうです。)
一方、大崎下島で栽培がはじまったレモンは、1924年(大正13年)には、日本産レモンの80%の市場占有率を誇りました。
そして、また問題が発生しました。
生産者と問屋との買い取り価格の問題です。常に弱者は大崎下島の農民でした。
これを解決すべく、末岡伍作をはじめとする「島おこし七人衆」は、同業組合を結成を計画します。
しかし、島内は組合派と反組合派(既得権を守ろうとする問屋側)の2つに分かれます。
末岡伍作をはじめとする「島おこし七人衆」は、農家の利益を守り、大崎下島の農民の豊かな暮らしの未来のために、農家一軒一軒まわって説得するのです。
努力の甲斐があって、1929年(大正15年)に「島のミカン作りの同業組合」が設立しました。
島おこし七人衆のリーダー的存在であった「末岡伍作」がつくった農園が、末岡新果園です。
そして、そのスプリットは現代にも脈々と受け継がれています。
それが、「令和 島おこし七人衆」です。
*参考文献=黄金の島 椋鳩十著 ポプラ社
*参考文献=『豊町郷土産業読本』(昭和三十六年八月一日発行・大長小学校長・藤原謙一編集・大長小学校編)
『カンキツ栽培法』(昭和四十一年十一月十五日発行・岩崎籐助著・朝倉書店)
※「広島レモン」はJA広島果実連の登録商標です。
「大長レモン」JA広島ゆたかの登録商標です。
*参考広島県庁HP
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemo
「耕して天に至る」といわれた大崎大島 豊島は、島中に段々畑が広がり秋になるとみかんがたわわに実ります。
収穫期に島全体がみかん色に染まるこの島は、いつしか「黄金の島」と呼ばれるようになりました。
豊町のみかんづくりは明治34年(1901)「青江早生」の導入に始まり「大長みかん」を全国に誇るブランドへと押し上げたのです。
その原動力となったのは、「どこよりも、おいしいみかんを」という島の人たちの情熱と努力です。
※ 写真は、島おこし七人衆のリーダー役で、行動力がずば抜けていた「末岡 伍作」です。
ポプラ社 椋鳩十の離島ものがたり 黄金の島
「耕して天に至る」といわれた大崎大島 豊島は、島中に段々畑が広がり秋になるとみかんがたわわに実ります。収穫期に島全体がみかん色に染まるこの島は、いつしか「黄金の島」と呼ばれるようになりました。豊町のみかんづくりは明治34年(1901)「青江早生」の導入に始まり「大長みかん」を全国に誇るブランドへと押し上げたのです。その原動力となったのは、「どこよりも、おいしいみかんを」という島の人たちの情熱と努力です。
「大長よいとこ東を受けて、みかんばかりの山と谷」と島では歌われています。
頂上まで開墾した段々畑が一面に広がり、見上げるばかりの急傾斜地に植栽されたみかんは、「大長みかん」として高い評価を受け、近隣の島々にも出作りをするなど、大きく農地を拡大して繁栄してきました。
児童文学者の椋鳩十氏は、全島がオレンジ色に色付く様子を「黄金の島」と評しています。